文鮮明師の精神と霊魂を全身全霊で通訳


 ここから私の「文鮮明先生の口」という役割が始まった。
二十五年間に及ぶ、主の
み言葉を通訳する歴史がこの時から始まったのである。
ここにおいて、私は別名「主の口」と呼ばれるようになったのである。


 既に述べたように、先生には原稿がない。
聖霊に導かれるままに、そのままみ言葉を語られるので、通訳者としての準備といえばただ祈祷することしかない。
 率直に告白すると、初めての講演会の通訳に際しては、先生のみ言葉の半分も伝えられたかどうか疑わしい。
脂汗ばかりが流れてどうにもならなかった。
それがボルティモアの「希望の日天講演会」であった。
次の都市はいよいよアメリカの首都ワシントンDCである。
ジョージーワシントン大学の講堂が会場に決められた。
 私は講演時間が近づいてくるのが恐ろしかった。
前日から私は震え始めた。
全く自信がなかったのだ。
 先生は早奥なる原理のみ言葉を、通訳者としての私の事情などお構いなしに、立て板に永のごとく語っていかれる。
その半分を記憶することも難しいのに、私はそれを英語に訳さなければならない。
当然、時間がかかってはならない。
ところが通訳がすべて終わらないうちから、先生はすぐ次のみ言葉を語り始められる。
私はまるで生きた心地がしなかった。
 ともかく、ジョージーワシントン大学の大会は成功裏に終わった。
 講堂は黒山の人だかりとなった。
私は脂汗を流したために洋服の上下がすっかり濡れてしまった。
 正直なところ、この仕事を続けたら大変なことになると思った。
アメリカで英文学の博士号を取得した人でもできない仕事であると思うようになった。
 (これが私の負わなければならない十字架なのだろうか? そうだとすると、どうやってこの使命を全うすればいいのだろうか?)
 目の前が真っ暗になるようだった。ご飯が喉を通らず、夜は眠りに就くことができない。
 (大変なことになった! 大変なことになった! いったいどうすればいいのだ)
 苦悩の夜は深まっていく。
 あれこれ煩悶する中で、あっちヘゴロゴロ、こっちヘゴロゴロしていると、夜が明けようという頃になって、忽然と啓示のごときものが私の頭をかすめた。
 突然、目の前に明るい光が差し込んでくる。
ある悟りが訪れたのである。
それは
「主のみ言葉の通訳を世の中の通訳のように考えるな」という啓示であった。
根本的に違う原則をもってせよ、言葉を通訳するのではなく宵魂を通訳するのだ、という啓示である。
 国連総会に行けば、数十人の専門通訳官たちが見えない暗い部屋に座って、聞こえてくる音声だけを聞いて、それを技術的に正確に他の言語に変えていく。
そこには感情もなく、魂もなく、語る人の心情は問題にもならない。
ただ単語一つ一つを正使に訳しさえすればいいのである。
 私に与えられた啓示は、国連通訳官のように通訳するなということである。
主の精神を通訳せよ、魂を通訳せよ、ということである。
これを言い換えれば、生命のみ言葉であるから、生命が通訳されなければ失敗である、ということでもある。
 その上にもう一つあった。
それは文化を通訳しなければならないということである。
東洋の伝統の中に現れたみ言葉を、西洋の人々に理解できるように伝達しなければならない。
 「そのためにおまえを、文先生がアメリカに来られる十年前にアメリカに送って準備させたのではないか。
それがアメリカ文化を身に染み込むほど習得せよという大の意図であったことを、おまえは知らなかったのか!」
 これが私に与えられた啓示の意味である。
 その時、何かしら希望が湧き上がってきた。
次の集会がむしろ待ち達しいまでになった。
 先生のみ言葉を通訳した三回目の大会から、私は怖くなくなった。
がたがた震えなくなった。
自信があるからではない。
すべてのことを天に委ねたためである。
大会の前には三時間、ひれ伏して祈祷した。
「私は文先生の魂と精神を通訳するよ霊的通訳官”なのだ」と自分に言い聞かせた。
 この通訳で最も重要なことは、先生の心情を体惶する(身に染みて深く感じ取言ことであった。
先生の心情の周波数と私の周波数がぴったりと合わなければならない。
そのために通訳準備で一番重要なことは祈祷であった。
私はひざまずいて天の心情の中に深く入り込もうと身悶えした。
 開会時聞かやって来た。
まもなく私は演壇に上がって先生の左側に立った。
私は先生が語られる言葉の単語一つ一つを聞くのではなく、その精神と霊魂の叫びを聞いた。
それから私は、私の持てる力のすべてを動員して、先生の精神と霊魂を英語で再創造するのである。
 私は先生の感情に従った。
先生が語調を高めて強調されれば、私も語調を高めて強調した。
先生が机を叩かれれば、私も机を叩いた。先生の語調に怒気があれば、私も怒気を発した。
先生が涙を流されて喉がつまったときには、私も喉がつまり涙を流した。
 時には、先生が天国の情景を描写して、ひらひらと踊りを踊られる。
そうすれば私もひらひらと踊りを踊る。
こうなると、もはや先生の講演会は一つの演劇であり、芸術でさえある。
観衆は飽きることを知らずに引き込まれてくる。
先生が私の背中を叩くことがある。
そうすると私も先生の背中を叩く。
先生は私の頓にキスをする。
そうすると私も先生の頬にキスをする。
観衆の間で爆笑が沸き起こる。
こうして私は先生の頬にキスをした唯一の男となった。
 時々先生は冗談を言われる。
冗談の通訳ほど難しいものはない。
韓国式の冗談の中には、アメリカ人にとってはおかしくもなんともないものがある。
ここには文化の通訳が必要である。
私は先生の冗談を、その性格に従ってそれによく似たアメリカ式の冗談に通訳した。
 その日から先生の「希望の日天講演会」は大盛況であった。
どこに行っても超満員であり、どこに行っても聖霊が満ち溢れ、どこに行っても興奮と面白さが会場を覆い尽くした。
このようにして、私は先生のみ言葉を通訳している間は完全に先生の分身になった。



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